「大衆酒場もーり」その後。 17:39


昨年12月9日付けのブログに、神奈川県の横須賀中央にある「大衆酒場もーり」の廃業について記した。

横須賀のマンションに独り住まいしていた亡母が2007年盆に発病したおり、小樽から出向いて病院をあたり、嫌がる母に診察を受けさせ、あれよの入院の挙げ句に今度は退院を迫る病院との交渉を続け、小樽市の施設を探し…。11月末の退院と小樽への移送、その後の役所の膨大な手続きから、2008年3月末にマンション売却が整うまでの約7ヶ月、僕は小樽と横須賀を20往復した。

病院のほど近くに「もーり」という大衆酒場があった。
朝9時から午後11時まで年中無休で営業しているその店に、僕は何度通ったことだろう。なんせどんな時間帯に病院に出向いても、通り道のその店は常に営業しているのだ。

つらい宣告を受けた直後も、言葉少ななスキンヘッドの店主との静かな交流が僕をどれだけ支えてくれたことか。

朝に昼に夕に、僕はもーりののれんをくぐった。

すべてが一段落して店主に暇乞いしたとき、
「あんたのことは間違いなく忘れないから…」
と言ってくれたのが嬉しくて、昨年11月に沿線三浦海岸の両親の墓参りの帰りに久々に立ち寄ったらもーりはなくなっていた。

冒頭のブログとフェイスブックで「消息をご存知の方がいれば」と呼びかけたところ、クリスマスイブに店主にごく近しい方から連絡をいただいた。今日まで報告出来なかったのは、ブログ等にどこまで書いていいか、その方を通じご本人の了承を得るのに時間がかかったからだ。昨晩遅く一番新しいメールをいただいた。

店主は健在だった。

年中無休、午前9時から午後11時までの営業をかたくなに貫いて40年近く、気力と体力のバランスが崩れ始めていた昨春、あの天災が起きた。深く関わっていた地元の祭りも中止になって、張りつめた糸が切れたように、先代と合わせると70年続いたもーりの歴史にピリオドを打った。昨年5月9日だったという。

消息を教えてくれた人が僕の書いたことを伝えようとすると、店主はすぐに僕との経緯を話し始めたという。僕には再会したい気持ちが強かったけれど、そうした思いを最大限に感謝してくれた上で、店主と客の関係で終わりましょう、と伝えて来た。

残念さよりも、最悪の事態まで想像したけど元気でいてくれたこと、約束通り僕のことを覚えていてくれたこと、これぞ飲食業のプロという言葉への敬意が軽く勝って、それ以上のお願いはしなかった。

だから、僕の中でもーりは永遠になった。

ジョンレノンと北温泉。 08:07



20年数年前、まだ都内のアパートに住む横浜人だった頃。 

翌日に予定のない男同士で金曜日の酒を飲みながら、このままお互い浮いた出来事が起きなければ、イブは温泉もいいだろうという話になった。その年も確かクリスマスは週末だったのである。 

同じ広告代理店のメディア担当の後輩キタゴーとむなしく盛り上がりながら、長身で色男のくせに多分予定のないであろうテラオにも電話をして クリスマス仲間を増員した。大学の同期生だったテラオは、在学当時は鴻上尚史主宰の第三舞台(同じ頃同じ大学にいたのです)で芝居をしており、化粧して六本木を歩いているようなとっぽい男だった。12月23日の晩はそうして過ごした。 

前の晩からの流れでその年のイブは、かつて僕が三年間住んでおり、その後世襲でキタゴーが住むことになった西早稲田の6畳ひと間のアパートの部屋で目覚めた。 

待ち合わせの駅に向かう直前、テラオから急きょ参加出来ないと連絡があった。午前中に行った医者で痛風が判明して、温泉どころではなくなったという。 

完全に露天風呂モードに入っていた僕とキタゴーは、もう飲めない身体になったと嘆くテラオの深刻さを理解しようともせず、また、20年後に自分にも降りかかる災厄とも知る由もなく、医者に行くのが来週だったと思えば、 今晩だけ飲んだって態勢に影響はなかろうと引き止めた。 
だって、どうせ昨日まで飲んでたんでしょ、と。 
しかし日頃のテラオらしくなく、その日の決意は固かった。 

東京から列車とバスを乗り継いで4、5時間。築百年を越える那須の「北温泉旅館」のクリスマスイブは、 だから、結局、また男二人だけになった。 

渋い客室での夕食や、プールほども広い露天風呂に浮かれながら、否応なく晩酌のペースは早まる。
夕方から降り続いていた雨。予感はあった。 

ありったけ持ってきてかけ続けていた、古今東西クリスマスゆかりの名曲ばかりの音楽テープ(カセット!)の中に、かの山下達郎の名曲はあったかどうか…。 その晩その曲の歌詞通りに、雨は夜更け過ぎに雪へと変わり、男二人の温泉のイブは最高潮に達した。 

そうだ。テラオを悔しがらせてやろう。 

客室のテレビでやっていたのは何の映画だったか…。 
とにかく、同じ文学部演劇専攻だったテラオが、その晩観ていないはずはないクリスマス作品だった。その映画のエンドロールが終わるか終わらないかのタイミングで、テラオの自宅に電話をかけた。 

「もしもし…」 

テラオの声だ。その瞬間、僕ら二人は 、
「メリークリスマス!」 と叫ぶと同時に音楽スタート!
曲はジョン・レノンの「Happy Christmas〜戦争は終わった」。 
全一曲を無言で再生して、そのまま電話を切った。 


翌朝、二日酔いの視野に入ってきたのは予想外に積もった大雪。 
まだ、早朝である。 大変だ。こいつは早いとこ、露天に直行だ。 
本州の人間、街場の人間は、ホワイトクリスマスにめっぽう弱い。 

そのとき、僕らはわが目を疑った。 
築百年のきしんだ扉を開けて、突然テラオが現れた。 

ジョンの歌声が効きすぎて、テラオは未明ハンドルを握った。 
明け方、まさかの大雪に行く手を阻まれ、北温泉に続く峠の道でクルマを乗り捨て、それでもヒッチハイクと徒歩でたどり着いたのだ。 

肩に雪を積もらせ、白い息を吐きながらテラオが言った。 

「メリークリスマス!」


訃報 〜 日曜日の終わりに。 19:10



先ほど母の姉の訃報が届いた。
末っ子だった母のすぐ上の姉からの電話だった。

生きていれば母は七十八、電話の叔母が八十二、亡くなった叔母は今年米寿を迎えていた。

母の納骨で上京した二年前、入所していた府中の老健施設に実に久しぶりにこの叔母を訪ねた。最後の一年、七十五の母はひとり息子の僕をもう分からなかった。でも、八十六歳の叔母は部屋に訪ねた瞬間「あらケイスケ くん」と言ってくれた。昨年の母の一周忌の際も再び訪れたけれど、そのときはあまり要領を得なかった。

この叔母はとある大病院の総婦長を務めた人で、僕はいつも「病院のおばあさん」と呼んでいた。入院中の誰もが知ってる超有名歌手にプロポーズされ、それをあっさり一蹴した逸話を持つ豪傑である。僕が小学生のとき叔母はいまだ独身で、しばらく僕の家(すなわち末の妹の家)に居候していたことがある。

ある日、居候中の叔母がある人から桜木町駅に呼び出された。叔母は僕に同伴するように乞い、僕は何もわからぬままに同席した。その席で叔母は求婚されたらしい。共に世に言う適齢期を過ぎた二人だったが、叔母はものゴコロも定まらぬ僕に、後の義理の叔父の印象を尋ね、僕がとてもいい人だと思う、と答えたことが叔母の独身生活を終わらせた。らしい。

その後、あの時ケイスケくんがあの人を褒めてくれたから…と叔母は幾度となく僕を恩人扱いしてくれた。

その人が逝ってしまった。

訃報を教えてくれた母のすぐ上の姉は、今年六月にご主人を亡くされたばかり。そちらの叔母は、僕の母も「病院のおばさん」も見送って、十人もいた兄弟でたったひとり残った。

「ケイスケさん、私ひとりぼっちになってしまいました」

両親を早くに亡くし、日銀に勤めて病院のおばさんと共に僕の母や他の兄弟たちの生活を支えた八十二歳の叔母の声が震えていた。


(※ 母の婚礼写真/昭和32年。… 母の右隣。上が昨日亡くなった叔母。下が電話をくれた叔母。左上が六月に亡くなった、その叔母の連れ合い 。この写真中、現在存命中は写真右下の叔母のみ)


「大衆酒場 もーり」について 16:47



今年のお酉様、三の酉は、四年前に母を横須賀から小樽へ移送した日と重なっていた。


三浦海岸へ出向いて両親の墓の草むしりを果した帰り道、京浜急行を横須賀中央駅で途中下車した。ここには母が入院していた病院があり、母のマンション売却を依頼した仲介業者があった。だからその頃、集中的にこの駅を乗り降りした。朝昼晩さまざまな時間帯に病院に足を運ぶ訳だが、通り道にいつでもやっている飲み屋があった。



「大衆酒場もーり」。

壁に「朝から飲み会出来ます」と貼ってある。もーりは朝九時からの営業なのだ。しかも休みがない。手伝いのおばちゃんもいるにはいたけれど、ほとんど店主ひとりで切り盛りしていた。早い時間から普通に客が居て、三冷のホッピーをやっている。


絶望的な病状を医師から聞いた帰りに、近々にベッドを明け渡さなければならぬ相談に向かう景気付けに、あらゆる時間帯にもーりに立ち寄った。


店主は背が高くて眼光鋭いスキンヘッドで、多くを語るタイプではない。それでもひんぱんに通ううちに、こちらの事情を察する程度の言葉は交わした。この先の病院に母親が入院していて、短い間に横須賀と小樽を何往復もしている。母親の次の落ち着き先を決めなければならない。そんな男だと。


マンションを一円でも高く売って欲しい、と仲介業者をもーりでご接待したこともあった。さかのぼること三年前に横須賀のマンションを探し出したのも、実家の一軒家を売却したのも、どちらも同じ若い担当者だった。そればかりか、横須賀へ母が移るとき彼は、休日返上でジャージを着て引っ越しの手伝いにまで来てくれた優しい男なのだ。


発病から移送、マンション売却までの一年に渡る小樽-横須賀往復がひと段落した報告にもーりを訪ねた時、店主にしばらくはお邪魔出来なくなる旨を伝えた。


強面で言葉少ない店主は、いつもよりも少しだけ高いトーンでこう言った。



「こっちへ来たら必ずおいでよ。かあさん大事にな。大変だけど。お客さんのことは間違いなくずっと覚えてるから」



おととし六月の母の納骨の時も、昨年四月の一周忌、今年三月の三回忌の時も、親族同伴なのでもーりに顔出し出来なかった。店主の強面が少し緩む様子と、もーりで初めて知った三冷ホッピーとの再会を思って僕は改札から足早にもーりに向かった。


急ぎ過ぎて僕はもーりを通り過ぎてしまったらしい。

慌てて引き返す。いや違う。大衆酒場もーりはなくなっていた。

すべての看板は引きはがされ、のっぺらぼうの閉じたシャッターだけがそこにあった。左隣の薬局も。並びの化石のような成人映画専門館はそのままなのに。


隣のパスタ屋に飛び込み、女将さんに事情を聞いてみる。


「五月のお祭りの頃だからもう半年にもなるかな。身体を壊して閉めちゃったみたいだよ。顔を合わせれば頭下げる程度の付き合いだったから詳しいこと知らないの。連絡先も分からない。ごめんね。せっかく訪ねてくれたのにね」


膝ががくがくした。

      (金星劇場の隣が薬局、その右隣がもーりだった)


横須賀中央から数駅上った金沢文庫駅には、最後に母が暮らした横須賀の三年間の直前まで、三十年間実家があった。金沢文庫、横須賀中央、三浦海岸と結ぶ京急の点と線のうち、二つの点が失われた。公私にわたって世話になった仲介業者の営業所も廃止されており、また戻って来る場所をひとつ失った気がした。


金沢文庫も横須賀中央も、これで下車する理由がなくなってしまった。



(※ どなたか、「大衆酒場もーり」と毛利さんのことをご存知 の方がいらっしゃったら、どんな些細なことでもいいので、教 えていただけませんか?)



ジョン・レノンとおでん。 12:28



1980年の12月8日は31年前ということになる。
その日、第二外国語のフランス語の教室では、誰もがジョン・レノンの訃報を口にしていた。 授業が終わって追悼ということになり、僕とテラオは大学の近所のおでん屋台に座っていた。 

大根、ちくわぶ、コップ酒。 東京、師走のすきま風。 
トランジスタラジオからジョンの歌声が流れ続けていた。 

それから毎年12月8日はテラオと一杯やるのが決めごとになった。 就職後も、毎度場所は変われど、なんやかやと長く続けた。 
ただし、19年前に僕が突然道産子に転身して以降の12月8日は、電話口で「シワス!(仲間内の12月の挨拶)」と叫ぶかファクシミリでの交流に留まっている。 

道産子3年目晩秋。 
札幌の素敵なおでん屋を雑誌取材する機会があった。 
おでんからの連想ゲームで1980年12月8日の屋台のことにも触れた。 その原稿を「だから今年の12月8日はこの店に来よう」と締めた。 

16年前の12月8日。僕は実践して「一平」のカウンターにいた。 
少し酔いが廻ってきたころ店の電話が鳴った。店主の谷木さんが「ホシノ君に」と受話器を手渡してくれる。 え? ひとり戯れに立ち寄っただけなので誰も知らないはず…。 

テラオからだった。 

「あいつのことだからいるに違いない」
記事を読んだ東京のテラオが、 誌面で紹介した番号にかけてきたのだった。 電話の向こうから懐かしい声。 

「やっぱりな。シワッス!」 

今宵一平に行きたいけれど、財布に千円しか入ってない。

開運の駒札。 13:02



古今亭八朝師匠からようやく届いた!
先月末に師匠の店でお会いした時点ではまだ完成していなかった。

以前師匠から贈り物としていただいたのをたいそう気に入っていたのだけれど、ある日ひもが切れていて二度と帰らず…

今回は改めて自分からお願いして、友人の分とふたつ創っていただいた。江戸寄席文字、橘流の橘 右楽 師匠の作である。こいつはそこらで売っているものとはちょいと訳が違う。

この五月に再会した横濱市立櫻ヶ丘高校時代の同窓生と、今二人で「横濱−小樽プロジェクト」を合言葉に、なんやかやと企んでいる。

彼とは在学中の三年間はずっとクラスも別々で、存在くらいは知っていたけれど一度も口をきいたことはなかった。それが34年ぶりにフェイスブック上で再会? してみると同業者であることが判明。その勢いで五月の横濱で逢ったのが、実は初対面だったという少々複雑な縁。

前の駒札は師匠のはからいで事務所の名前「風の色」と「星野」だった。今回はプロジェクト成功を祈願して「横濱 小樽」とそれぞれの名前でお願いしたのだ。

いいでしょう。

どうだ、尾崎!
これから発送するからな。

お酉さまの記憶。 00:36


四年前の十一月。
母を飛行機に乗せるために上京した。入院先の横須賀の病院から小樽の施設へ搬送するのだ。それはいよいよ実家が横濱から消滅してしまうこと、横濱と縁が切れてしまうことも意味していた。けれど、急な転倒骨折で母は病状を悪化させており、容態をにらんで滞在を長期化せざるを得なくなった。

ようやく搭乗が二十六日に決定したその前の晩、僕は野毛から伊勢佐木町にかけて、本当の地元と呼べるあたりを彷徨っていた。

うねるような人波に気づくと、多くの人が熊手を手にしていた。人波に逆らって上流に向かうと、酉の市にたどり着いた。その日は二の酉だった。南区真金町の金刀比羅 大鷲神社。初めて訪れる場所だ。気がつけば、滞在中二度目のお酉様だった。偶然だけれど、一の酉は浅草の鷲神社にいた。

旅のお守りのようなつもりで、小さな熊手を手に入れた。


先週末の十一月二十六日。
かつて母を施設に入所させるために北を目指した日はたまたま東京出張で、今年の三の酉にあたっていた。もろもろ思い出して、打ち合わせ兼昼食のあと、浅草鷲神社を訪ねた。

今年四月は、母の二回目の命日だった。

並木再生。 17:06



六月初旬に浅草並木の薮を訪ねたら、更地になっていることに気づかず通り過ぎてしまった。


工事の人が数名。呆然としている僕に、
「いろいろご迷惑をおかけします.八ヶ月かけて元通りにします」
と話しかけてくれたのは、なんと三代目、現当主だった。並木薮のものの本を読むくらいこの店の熱狂的ファンなので、その人の顔には見覚えがあった。それだけでも感動なのに、三代目は僕の顔を覚えていてくれた。

「いつも来てくれてますよね」
やに下がって僕が歓びを露わにすると、
「お客さんのことは厨房から結構見ているものですよ」
と三代目が続けた。


二十六日土曜日に羽田から直行して並木薮へ。
仕事の打ち合わせを兼ねて待ち合わせした午前十一時半はちょうど再生した並木薮の開店時間で、五分遅れてたどり着いたら、すでに満席の上にしっかり列が出来ていた。

ようやく入店して、しばし老舗の味を堪能してから、僕はお手洗いに立った。厨房の前を横切ろうとして、中にいた三代目と目が合ったので会釈すると「おおっ」と大きな声を出して(ちょっとそこで待っていてください)というような仕草をした。

その場で待っていると、ごった返している時間なのに別の扉から三代目が店内に現れて、
「先代が書いたつまらないものですがよかったら」
と一冊の本を差し出した。


敬愛する老舗当主からの過分な扱いに僕は天にも昇る気持ちになった。通い詰めた甲斐があった。少しだけ距離感が縮まったようで胸が熱くなるほどだった。

「またお待ちしております」

三代目の太い声に送られて、ちょっと連れには誇らしい気分で僕らは並木薮を後にした。


風景の代償「夜」 22:57


日々この風景の中に身を置く至福を手に入れたけれど、計画的に人生を運ばない人間が代償として支払って来たものも少なくはない。

風景の代償「昼」 22:51


十九年前、まだ東京のアパート住まいの横濱人だった頃。
バイク旅の道すがら、この風景に魅せられ、衝動的に小樽に移り住んだ。